暴力、流血の描写があります

「ああ、アリス、あと少しいい?」 「ええ、大丈夫ですよ」 プロトコルの廊下は暗くて青くて静かだ。 「なにか問題がありましたか?」 「いや、そいうのじゃないんだけど」 モニカさんがこういう砕けた話し方をしたり、わざわざ溜めを作ったり回りくどい「会話」を行うのは親愛の証だということを私は知っている。 「あー、プロトコルから離れようと思ってね」 「ひゃえ…!?それはまた……」 プロトコルの廊下は声がよく響く。予想外の言葉に思わず大きな声をあげてしまった私は声をひそめる。 「いえ、反対などということはないのですが…びっくりしてしまって……」 「まあ、そいうことだからなにかあったらよろしく」 「よ、よろしくと言われましても……」 言いたいことを言い終わったモニカさんは手をひらひらさせながら、歩いていく。足を止めて振り返る。 「そうだ、足はどう?」 「あ、はい!モニカさんのおかげでだいぶ良くなってきました。ありがとうございます」 「いや、気にしないで。大したことじゃないから」 モニカさんにとっては怪我した足を治すくらいは本当に大したことじゃないのだ。改めてすごい人なのだと思う。 「私よりエステルのこと考えてあげなよ。その方がいい」 「はい…ありがとうございます……」 少し前、私は足を怪我した。怪我なんてレベルではないかもしれない。右脚が完全に取れてしまった。昔の記憶を取り戻して、ショックと自己嫌悪と罪悪感でめちゃくちゃになったエステルに足を吹き飛ばされた。その時のエステルちゃんの顔は今も鮮明に思い出せる。悲痛な叫び声、行き場のない感情、もう誰にも許してもらえない罪悪感。自分だけが生き残ってしまったという罪。おんなじだ。エステルちゃんは私の右脚に銃を向けて発砲し続けた。そして弾切れを起こした銃を投げ捨ててエステルちゃんは私の右脚を執拗に殴り続けた。何度も、何度も、泣きながら…その光景と痛みを今も覚えている。痛みはずっと嫌いだった。実験体として扱われていた時のことを思い出す。毎日が痛くて怖い実験の繰り返し。落ちない汚れが染み付いた部屋、真っ白な防護服に身を包む研究員たち、明るい照明、ガラス越しに見つめる顔の見えない人たち。誰も実験を止めなかった。誰も研究を止めなかった。同じ部屋にいたひとたちはどんどん減っていった。残った私は痛みと恐怖でずっと怯えていた。生き残ってしまった罪悪感に押しつぶされそうだった。ただ見ているだけのやつらに復讐する事だけを考えていた。嫌な記憶だ。だけど記憶に残る右脚の痛みは嫌なものじゃなかった。むしろとてもいい思い出だ。幸せな気分でそれを思い出す。医務室で暴れ出すエステルちゃん。叫びながら銃を撃って、目につくもの全てを殴って壊す。破壊された部屋、血を流すスタッフたち、消えかけの電灯、遠巻きに見つめるモニカさん達。誰もエステルちゃんを止めなかった。壊せるものがなくなったエステルちゃんが私に向かってくる。今にも泣きそうな虚ろな表情。きっと次に壊されるのは私だ。だけど誰もエステルちゃんを止めなかった。ただ見ているだけ。でもそれが嬉しかった。冷たい目なんかじゃなかった。泣きそうな私に縋るような目。抱きしめたいと思った。全部を受け入れたいと思った。エステルちゃんは私に銃を向けて撃つ。何度も何度も撃つ。私は立っていられなくて床に倒れる。自分の血だまりが広がっていくのが見える。何がなんだか分からなくなってくる。視界の端にエステルちゃんが見えた。私は安心させるように笑みを浮かべていた。うまく笑えていただろうか。手を伸ばそうとするけど力がうまく入らない。強化されているはずの身体でも耐えられそうにない。今にも全身の力が抜けてしまいそうだった。それでも私はエステルちゃんに手を伸ばす。 「エ…ステル…ちゃ…ん」 エステルの銃が弾切れを起こす。途端に空間が静かになる。エステルちゃんが銃を投げ捨てる。床にぶつかった音が消えて、私たちの呼吸だけが響く。エステルちゃんは私の伸ばした手に導かれるようにこちらへ近づいてくる。私を見下ろす。影になって顔はよく見えない。しばらくそのまま私を見下ろして、火がついたように私を殴り始めた。エステルちゃんは泣いていた。泣きながら私を殴っている。身体がちぎれて血が流れる。血を吐き出す。全身が跳ねる。馬乗りになったエステルちゃんに殴られる。傷ついたところから再生が始まり、また肉が裂ける。骨が折れて、再生して砕ける。身体が滅茶苦茶になっているのが分かる。勝手にうめき声が漏れる。思考が段々ぼんやりしてくる。このまま死ぬのかもしれないなあと思う。それでもいいかもしれない。エステルちゃんに殺されて、いい人生だったと心から思える。ずっとうまれてきたくなんてなかった。嫌なことばっかりだった。誰も私の存在を望んでいない、誰も私を大切にしてくれない。ずっとひとりぼっちだった。世界はずっと暗くてつめたかった。ずっとずっと自分がいなくなることを願っていた。ようやくそれが叶う。私はようやく許される。生き残ってしまった罪から逃れられる。大嫌いな私が殺される。大好きなエステルちゃんの手によってそれが叶うなんて幸せ以外になんと言えるだろう。エステルちゃんは私の光だ。エステルちゃんは私に光を見せてくれた。たとえ一時の気まぐれだったとしても、私と家族になろうって言ってくれた。私にあたたかさを教えてくれた。ぼんやりとしたままエステルちゃんを抱きしめる。あたたかい。小さくてあたたかい。なんだか分からないけど私は幸せだった。あたたかさに包まれている。痛みは怖い。傷つくのはとても嫌なことだ。だけど私はエステルちゃんの為に傷つく事は全く怖くなかった。むしろ傷つく事ができてとても幸せだと思う。私はエステルちゃんの為に傷つく事ができる。血を流す事ができる。きっとこれが愛なんだと思った。エステルちゃんの為に血を流す事ができて私はとても幸せだ。エステルちゃんは暴れるのをやめていた。ただ私の上で泣きじゃくっている。 「ごめんなさい…ねーさん、ごめんなさい……」 「エステルちゃん、いいんですよ」 「ママ…パパ……ごめんなさい、ごめんなさい…」 私はエステルちゃんの頭をなでる。 「う、うぅう…ごめんなさい、私が…っ、ママとパパを、私が…私が殺した……私が!私……っごめんなさい…ごめんなさいごめんなさい」 私が知らないエステルちゃんの家族。彼女が殺した大切な家族。 「……エステルちゃん…」 ぞっとするほど虚ろな目で私を見る。 「ねーさん」 普段よりも低い声。エステルちゃんの地声と素の話し方。 「アリス、私を殺して」 「…それはできません」 「どうして」 「エステルちゃんを殺した私は生きていく意味も価値も資格もないから」 「じゃあ、一緒に死んでください。エルには生きていく資格がない、意味も理由もない」 そう言って私の首に手をかける。 「いいですよ、エステルちゃん」 じわじわと首をしめられていく。もう身体の感覚は残っていなかった。なにも見えない、なにも聞こえない。 「せーので死にましょう」 首にあたたかい感覚だけがあった。 「エステルちゃん、私にあたたかさをくれてありがとう、ずっとずっと幸せでした」 なにもない。 「せーの」 ただ幸せだった。

私は病棟エリアに向かう。結局すんでのところで助かってしまった私は少しの検査入院を経て、もとの生活に戻っていた。残念と言えば残念だがエステルちゃんも同じく無事だったことがなにより嬉しかった。途中でお菓子を買って一番奥の隔離された病室にはいる。 「エステルちゃん、こんにちは」 ベッドに横になっていたエステルが身体を起こそうとする。 「アリス…」 「横になったままで大丈夫ですよ。調子はどうですか?」 そう言いながらお菓子をサイドテーブルに置き、ベッドの横に置いてある椅子に座る。テーブルは食べ切れない程のお菓子や感想を書いた付箋が何枚もついた誰かの読みかけの本、落書きされた機密書類などで散らかっている。みんな時間を見つけてはお見舞いに来ているようだ。 「調子は大丈夫です。モニカもそろそろ退院できるだろうって」 「よかった…」 「アリス、本当にごめんなさい。私アリスにたくさん酷いことしちゃった。もう本当に生きていく資格がない」 「私は大丈夫ですから、エステルちゃんがこうしてお話してくれて…それだけで幸せですよ。資格がないなんて、そんな事ないですから」 「でも、私はアリスを殺してしまうところだった。そんなことして、私、どうしていいか…」 「私はエステルちゃんに殺されたってよかったんです。確かにたくさん傷つけられましたけど、私は幸せでした。今もこうしてお話できて嬉しいんです。本当に、本当に…」 「どうして?私は、そんな…どうして…」 「エステルちゃんは私と家族になってくれるって言ってくれました。こんな私を、私自身を見て、大好きって言ってくれて、大切にしてくれた。私を家族にしてくれた。だから、そんなエステルちゃんに殺されるなら、エステルちゃんと一緒に死ぬことができるなら、それが私の幸せなんです」 「…エルは家族を殺しました。エルはあの時、家族を見捨てたんです。そんな自分が家族になる資格なんてない」 「資格がないって…!だからなんだって言うんですか!」 「だって!そんなの許されない!エルは家族を殺した。もう助からないからだから楽にしてあげようなんて、そんな事言って諦めたんですよ!そんなの傲慢だ!私のそんな、そんなものでパパとママは殺された…エルは、エルは…」 「ご家族のことは…、私にはなにも言えません…だけど、だけど私にはエステルちゃんが必要なんです。エステルちゃんがいなくなったら私はまたひとりぼっちになってしまう。エステルちゃんがいない世界でずっとずっとひとりぼっちになっちゃう…そんなの嫌だ…嫌なんです……」 「私の他にも大好きはきっとあります。モニカだってジャックだって、ネヴァもノアもいる。みんなアリスを大切にしているしアリスを必要としてくれますよ」 「違う…!私の大好きは、特別はエステルちゃんだけなんです。エステルちゃんだけがいいんです。私はエステルちゃんのことが大好きなんです」 「家族になってくれたから?」 「違う!!」 怒気をはらんだ声が出る。こんなに感情をあらわにして大きな声を出したのは久しぶりだった。